主観が世界になるという話
世界の話
私が、内なるもの経由でアクセスできる微細な存在たちを、まだ自分の妄想ではないかと疑っていたころ、信じるようにと言われた。
その過程で、こういったものの存在を疑うことの無意味さと、この世界がどうやって形作られているかも聞いた。
まず、この世界が自己の外側にあって、物質的なものは確固たるものだという考え方が、そもそも誤った受け取り方だと言われた。
世界を見聞きして感じているものは、「私」の主観である。
主観というのは、五感のことだ。このように見えて触れて聞こえて嗅いで味わうという、あらゆる感覚器官を経由して受け取る感受のことだ。
そのため、あらゆるものというのは「私」という主観を介して見る、「私」が感受したものにすぎない。
客観すらも本質は幻だ。客観というのは、私という主観越しに見た、客観という現象でしかないからだ。
実際に自己が感じ取っているのは、「私が主観している私と世界」これだけである。
例えば、私の感情や肉体は、私に所属していて、世界と異なるものだと感じているのが普通だと思う。
でも実際には、その私の感情や肉体であっても、私が主観しているものであり、私が主観した世界の一部である。
つまり、自己というのは、「種々を主観している私という意識」しかなくて、他のものは世界に属している。
だから、「私の主観したもの」を物質と比較して偽りかどうか疑うことに意味はない。
どちらも私の主観にとっては、同じ現象に過ぎないから、「私が生きる世界」にとって、同じ重みを持っている。
そう言われた。
そして逆に、疑ってかかることは、その重みを偽りにして消してしまうことだから、目に見えない微細なものたちと関わりたいときは、そのような思考パターンは枷になる。
そうとも言われた。だから信じなさいと言われた。
繰り返し信じろと言われた。
私は最初のころは、なにを霊感商法みたいなこと言ってるんだ。と思った。
でもまあ、そのようにくどくど説明されて、なるほど……一理あるかも? と思えた。
それを思うと、科学的にはプラシーボ効果というものが人間に存在するのも興味深いものだなと思った。
「信じる者は救われる」という言葉が伝統的な宗教に存在するのって、そういう意味なのだろうか? とも思ったりするのだった。
主観をコントロールする先にあること
このようにして微細なものを主観に受け入れ、瞑想体験を繰り返すことの意義も聞かせてもらったことがある。
まず、主観に対するコントロール能力を得ることは、自分の人生をコントロールするも同然である。
それも去ることながら、瞑想によって生きたまま何度も肉体を離れる経験を繰り返すことで、肉体と意識は無関係だということを学ぶ。
すると、どうなるかというと、肉体が死を迎えるときに肉体から離れることができる。
それが可能になったとき、自己から生死という概念が存在しなくなる。生死の概念が無くなるというのは、死ななくなるということだ。
それは、「私」の主観において死が起こらなくなるからだ。意識は維持されて、死というものが、肉体を離れるというただの通過点となる。
ちなみに、重要なのは頭で理解することと、実体験として経験することには大きな乖離があるというところだ。
自分の主観・すなわち世界にするためには、自己が「これはごく当たり前に存在する」と感じる。それが常識であると感じられるほどに、主観にとって、それが存在していることが自然であり常識でなければいけない。
逆を返すと、この世界がこの世界たる所以は、主観自身が潜在意識の奥底まで、それを当たり前にあるものだと感じ取って確信しているからである。
だから私も瞑想体験を深めて、肉体から離れる経験を繰り返して死に備えるようにと言われている。
できなかったらどうするの? 路頭に迷う? と聞いたら、絶対に連れて帰る。私のいる場所へ連れて行く。と言っていた。
聞けば、まあまあ悪くなさそうな待遇なので、そうしようかなと最近は私も思っている。