シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

お面の奥にある、個をなくすという知恵

今日は、とある地方の郷土資料館へ行き、昔の祭りの衣装の展示を見てきた。
並んでいる衣装は、どれもお面や傘や布で顔を隠していることに気がついた。

どうして、みんな顔を隠しているのだろう? と疑問を口にしたら答えが返った。

彼らには神々の依代としての役割があるから、顔を隠している。
人間としての個を隠すことで、自我(魂)が無い者として神の依代(乗り物)になっている。

あー、なるほどなー! と納得するとともに、理に叶っているなと関心もした。

こうして顔を隠すことで、個をあやふやにしておけば、他者の祈りを聞いても念を必要以上に受けずに済む。
だから、たとえ祈願を受けたりヒーリング等を行ったとしても、個に留まらず、受けた思念を宇宙意識の方に流しやすいだろう。

これは祭事に限らず、祈願やヒーリングでも使えそうな方法だなと思った。

というのも、人間というのは、もとい魂という個に切り分けてしまうと、多くは他人の思念を受け止めても平気にはなっていない。
思念、怨念というか、そういうエネルギーが滞留してしまうので、他人の穢れというのか、悪いエネルギーを吸い続けていると、いずれ体調を崩すか、信じられないほど貪欲な人間になってしまう。これは魔境に落ちるとも言われているけれども、祈願、ようするに欲望を受け止めるというのはそういうことなのだ。

なにしろ人間も宇宙のエネルギーの一部にしか過ぎない。個があるというのは、そこにエネルギー(意識)が滞留した状態ということでもある。
名前や肉体、概念があると、そこに留めてしまうので、受け流すというのがやりにくいだろう。

そういう他者の念を受け取る仕事をする人は、浄化のための行をするという人もまあまあ居るんじゃないかと思うけど、それでも限度があるし大変だろう。
だから、お面などで顔を隠して個を無くすというのは、意外と理にかなっているんじゃないかなと思う。

私も、もしそういうことをするような機会がある場合は、自己防衛として個を無くすというのはだいぶアリだな……と思った。


以下は余談だけど、桜が美しかった。
今日出かけたのはたまたまだったけど、外出して良かったなと思った。

途中、雨に振られたが、重なり合う木々がすぐ近くにあったおかげで一滴も濡れなかった。
少しの間だけだったけど、天然の屋根の下で雨宿りすることができたのは嬉しい体験だった。