シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

導きとは何か?──魂が出会いを呼ぶ仕組み

スピリチュアルでは、導きという言葉が多く使われているかと思う。
今回はその導きが、どういう仕組みで働くのか? また、どういう所から呼び込むべきか? というお話。

導きというのは、他者の言葉、自然現象、出来事、あるいはインスピレーション……様々な場所から得られる。

それはなぜかというと、私たちは、もとい、ありとあらゆるものというのは本質的には一つだからだ。

私たちというのは深いところで繋がっている。そのため、"私"(それは私という意識・魂という宇宙意識の断片)にとって今必要とするものを、第三者(それは人間だったり、現象だったり、出来事だったりする)が無意識に受信して、無意識に返してくれるという事が起こりうる。

以下では、導きを運んできてくれる仕組みと、自身が受信できる仕組み、ふたつにわけて解説したい。

自己が導きを受け取る仕組み

"私"がいま見ている現象・世界の姿というのは、過去記事でもお話したことがあるように、その本質は魂(自己意識)の主観である。つまり、実際には外側にあるまったく無関係なものではなく、"私"が感じている内面的なものが映し出された形状だ。

つまり、"私"が目にしているもの、他者、世界、それらは、自分自身が心の奥底に抱えているものの投影という側面もあるというわけだ。
だからこそ、魂が自分が必要とするものを世界に見出した状態のとき、意識にとって引っかかる。心に残る。腑に落ちる。
これが、自分を軸にして見た気付きの仕組み。

次に、それをもたらしてくれる第三者が、なぜそのように動くか? の仕組みを説明する。

三者が導きを運んでくれる仕組み

自己を「これが私である」と考えているこの自己意識(それは魂とも呼ばれる)が一体何なのかというと、宇宙意識のひとかけらなのだ。
宇宙意識のひとかけらが、自分は諸々の一部だということを忘れて、これだけが私だと信じ込んでいる状態というのが"私"という意識状態だ。
だから実際には、ひとつですべてであり、すべてでひとつでもあるというわけだ。

それは人間で例えるなら、自己と他というのが、右腕と左腕であるようなものだ。
右腕と左腕というのは人体というひとつのまとまりの一部でしかなくて、繋がっている。右腕が怪我をしたとき、痛みを感じるのは人間自身で、左腕が怪我をしたときも、痛みを感じるのは人間自身だ。でもそのときに、たとえが右手がかゆい時なんか、無意識に左手でポリポリとかいていることがあると思う。
それが、第三者が導きを運んでくれる状況のようなものだ。

つまり、自身が感じたことや抱えているものを世界自体が奥底で感じ取っていて、それが、第三者を経由して反応として現れることがあるということ。
なぜならすべては繋がっているから。

そして、このように魂の導きが起こる状態というのには、条件がある。

魂の導きが起こる条件

  1. 自分の心が、欲や感情で乱れておらず落ち着いた状態であること。(=世界に投影された自己意識を湾曲せず受け取れる状態)
  2. 相手の心も、欲や感情で乱れておらず落ち着いた状態であること。(=相手も世界から意識を受け取れる状態)

このふたつが満たされた状態になったとき、点と点が線で繋がるように、スルスルっと導きが現れる。

じゃあ、どこから導きを得るのが一番良いのか? というと、以下のメリットとデメリットがある。

導きを得る先のメリットとデメリット

自然現象

メリット:
 相手フィルターが存在しないため、相手の欲や感情で乱れるリスクがない。
デメリット:
 言語化されない象徴的なものであるため、スルーする確立が非常に高い。
 あるいは、自分が誤読する確立も高い。とくに、自分フィルターがある場合は高確率で歪む。

インスピレーション

メリット:
 自然現象と同様に、相手フィルターによる湾曲が起こるリスクが無い。
デメリット:
 実は自然現象以上に自分フィルターが起こりやすい。なぜなら、自然現象は起こるべくしてしか起きないけど、インスピレーションは自分の心が呼び込むものであり、意図的に降りた気になることも可能だからである。自然現象と同様に自分フィルターによる湾曲リスクが高い。

他人の言葉

メリット:
 言語で伝わるため、具体的な理解がしやすい。
デメリット:
 他人フィルターと自分フィルター、ふたつのフィルターを越える必要がある。
 下手したら他人の欲や感情に振り回されて終わる。

 ただし、具体的な情報が言語で得られるというメリットは大きい。

見えない存在の言葉

外部から肉声で聞こえた:
 聞いてはいけない。肉声がある=肉声を持てるほど個(感情や欲)があって粗雑な存在である証拠。
 より宇宙意識に近い存在というのは、どんどん澄んでいくため逆に個を区別することが難しくなる。

内部から聞こえるインスピレーション的な声:
 インスピレーションと同じ取り扱いとなる。

出会うものはなんでも導き?

答え:そんなことはない。
他人(自然現象を含めた他の自己意識)だって、他者のためにずっと生きているほど暇ではない。
彼らにもまた、彼らにとっての課題や目的や因縁があって、そのための主観世界を生きている。原則的にはそう。

それでも世界を見た時の、自分の受け止め方や感じ方、何が気になって、何が目に止まるか、どんな情報が心に残るかというのは、自分から起き上がるものだという考えは必要だと個人的には思う。
そういう、自分自身の中に取り込まれるものにこそ、自分との縁や関連が存在しているからである。

また、他者には他者の……があると言っても、そういった存在に出会い、何かしら見て聞いて話す。そういったことそのものは、あなた自身の内部にその因子があったからこそ出会うものであることもまた間違いないことだ。

でも、それは、プラスにもマイナスにもならないもの・プラスになるもの・マイナスになるもの、と影響力が混在している。
導きを求めている人にとっての導きというのは、べつにその結末がマイナスの影響でもなんでも良いというわけではないはずである。

まず"私"という自己(魂)の中にある情報というのは、プラスになるもの、マイナスになるもの、どちらでもないもの、既に色々と混在している状態だ。そうでもなければ人間という体験にはならない。
そして、その混沌としたところから起き出してくるのが"私"が体験する主観世界というものであるので、なんでもかんでも導きになるかといえば、いや、そんなことはないよ。というわけである。