今回は、人生の中に苦がどうしてあるのか? また、それとどうやって向き合えば良いか? というお話をしようと思う。
苦しみはどうしてあるのか?
世の中というのは本当は、生まれつき平等なんかじゃない。平等というのは実際には、単なる理想論できれいごとだ。
そんなきれいごとを信じられる人は、苦しみを知らない人だけだ。そのように思う人もいるだろう。
それくらい、人が経験する苦楽には個人差があるのが、この世の現実だ。
もちろん自分の選択による失敗もある。けれども、避けられない持って生まれた受難もある。
避けられない受難である場合は、不条理に感じたりするだろう。あるいは、自分の生まれや不運を恨むかもしれない。
あるいは、選択の結果による苦の場合も、そのときには、どうしてもそれを選ばざるを得なかった状況もあったりする。
それを作ってしまった原因は、環境だったり、感情だったり、その時の信念だったりする。
あとになって悔いても、苦を作ってしまった以上、それと向き合うしかない。
そのような苦しみは、どうしてあるのだろう?
(たとえ苦しみがあると理解していても)選んでしまったのは、なぜだろう?
その原因は、自身が持っている魂(意識)が内側に抱く『情報』に存在する。
元から持って生まれてきたもの:人生の設計図
人間は、もとい魂というのは、生まれてくる前には既に存在した。
魂というのは正しくは、世界意識の断片的な意識であり、この断片を"私"だと自認している。
魂は、私と感じた意識を、確立した個だと自認したときから、個と世界という切り離された主観、つまり幻想を生み出した。
それ以来、個として世界との関係を通じて、魂の記憶(情報)を蓄積させ、その記憶に従って新たな主観を見続けている。
私たちは、幾つもの生涯という主観(体験)を繰り返しながら、世界意識へ帰るまでの長い旅路を続けている。
だから、私という魂は、実は生まれたときがゼロではない。生まれる前から既にあって、生まれる前は前で、他の主観を見て感じて体験していたのだ。
今生というのは、実は、その続きを見ているという状態なわけだ。
だから、どんな世界を見て、そこにはどのような常識があり、どのような力学があり、どのような文化が、どのような価値観があるか? さらに、どのような影響を受けて、どのような感じ方をするか? というのは、実際には最初から決まっていて、また、それは人それぞれ異なる。
それは魂によって、ここに行き着くまでに体験してきた主観が異なるからである。
魂の記憶に、苦の原因となる影響があった
苦しい体験として表出するというのは、すでに魂の経験の中に、その苦の要素が存在しているから、なにかの拍子に主観として発現する。
それは、自分が過去にやった行いの記憶がそのままで現れることもあれば、他にもある経験と混ざって、魔改造を済ませ、まったく別の形で現れることもある。
このようにして、苦というのは主観世界の中に現れることになるのだが、じゃあ、過去の自分(ないし自分の魂)が悪いのか? と言えば、ハッキリ言って私はそんなことはないと思っている。
魂というのはつねに幸せになりたいという原動力がある。なぜかというと、世界意識の状態というのは、とても安らかで落ち着いていて常に幸福感があるような状態だからだ。そのときの遠い記憶があるため、それを無意識下(つまり魂そのもの)が欲している。誰でも最初は統合された世界意識という状態だったから、誰でもそのときのことを魂では覚えている。
でも、焦点のあるところが、ちょっと気になったから意識を向けたら、たちまち吸い込まれて、しかもそこに固定されて、意識を個から広げられなくなった。そんなことは初経験か、あるいはほとんど経験がないことなので、どうすれば切り離せるかもわからない。だから世界意識にアクセスできず、何がどうだったかもハッキリ思い出せない。ただ、たまたま意識が離れたすきに世界意識のことを、ふと感覚的になら思い出せる。魂というのは、こういう状態だ。
だから魂が行う様々な選択やあがきというのは、基本的には幸せになるための試行錯誤なのだ。
でも、常にそのような幸せを求めているわけではないとも思われたかもしれない。それにも理由がある。
経験がない魂というのは、主観世界で見て感じたものを参考にして試行錯誤するしかない状態なのだ。だから時には、誤ったものが自分にとっての幸せであると誤認して、それを求めて執着してしまうこともある。
でも、そうなるのは、このような理由:
- 世界意識の本質を根底に覚えている。
- 魂の奥底には、その状態に戻りたいという欲求がある。
- しかし方法がわからず試行錯誤をするしかない。
- 試行錯誤は、主観世界での情報に基づくしかないため、時には誤ったものにすがる。
このような事情から、むしろ苦を呼び寄せてしまうような結果、あるいは価値観、あるいは信念、あるいは感情に、繋がるような行動をしてしまう。
私はこれは、誰かやどこかに悪があるわけではないと思っている。
ただ、ただただ、悲しいだけのループで、それはただ、わからないから起こる悲劇だ。
その状態の根源を生み出したのは情報であり、それは魂自身にとっては悪意のない足掻きと、それに伴う混乱だと知っているから、私はこういう事象に対して、無力感と悲しい気持ちを抱く事がある。
どう向き合えば良いのか?
魂にとっての苦しみに繋がる行動を徹底的に避けなさい。という流派も存在しているのは知っている。
でも、その上で私が思っているのは、以下のことだ。
1. 避けられるものは避けた方が良いと私も思う。
これは新しい苦しみを生み出さないための防衛策だと私も思っていて、やる価値は充分あると思う。
避けるといっても、嫌なことはしなくてもいいという意味ではない。
ここにおける苦しみに繋がる行動というのは、魂の記憶として蓄積され、ゆくゆくは苦として主観に表出するものを指している。だから、一般的な好き嫌いとか、嫌なことはしないとか、そういう意味ではない。具体的に何を避ければいいかと言えば、例えば仏教にある五戒や十戒にあるようなものがそれに該当する。
つまり基本的には魂の傷となるような行為を避けた方が良いという意味である。
2. でも、どうしても欲求があるものは、無理をして避けなくても良い。
これは今生だけの視点で見ると、ときに悪魔的でもある。なぜなら苦しみに突っ込むことだとわかっているから。
ただ、なぜ私がこのような考えを持つかというと、欲求に囚われているものというのは、基本的には魂が古い記憶から持ち越してきた衝動であり、それを通じて何かを学びたがっている。だから、それを我慢したところで、単に学びを前送りにするだけなので、むしろ欲求をつのらせたり、反動が起こるリスクがある。
というのも、魂がその毒を知らないからこそ強く求めるという側面もある。知らないということは、いまここで避けても、いつかどこかでまた同じ毒にはまり込む。そうなったとき最悪の場合、より強い毒にはまり込んでしまう。だから私は、ときに苦しみになっても、それは無理をして避けるものではないと考えている。
3. 代わりに必ずやるべきことがある。それは学びを得ること。
どうしても求めるものを無理に避ける必要はない。ただし、そこには、やるべきことが必ずあると私は考えている。
そこには学びがある。そこから学びを得るまで、欲求は止まらないだろう。だからこそ、意識して学ぶ。私はこれによって学びに来ているのだというのを自覚して、自分はそれを通じて何を感じたか? 何を得て、何を失ったか? また、周囲に対して、どのような影響を及ぼしたか?
こういったものをきちんと意識して向き合い、隅々まで目を向け、感じ取るべきだと考えている。
そこに学びはあり、学びを得たとき、その欲求は納得を生むはずだ。それによって、自ずと手放すことができると私は考えている。