私が、『これをやったら救われます』とかハッキリと書かず、いつも魂の声を聞けるという、一見、中途半端に見えるかもしれない状態を重視する理由。
それには理由が幾つかある。
理由1:何が救いになるかは人それぞれ違う。
これだけあれば万人に効く! なんてものは存在しない。
人それぞれ状態も、状況も、持って生まれたものも何もかもが違うのだから、万人共通の絶対的な解なんてものは存在しない。
だからこそ、私が重視しているのは、人それぞれが心の奥底に抱いている魂の声を聞くこと。すなわち自己意識の本音を知ることだ。
他の誰かが主張する幸せというものが、自分にも等しく当てはまるわけではない。
自己意識の本音に合致したものでなければ、たとえ、世間的には、他人から見て幸せと定義される状況であったとしても、何かが満たされない。腑に落ちない。不満足感がつねにつきまとうはずだ。
逆に、魂が自らの人生に対して求めているものに自身を一致させるというのは、人生の充足感に繋がる。
その過程に苦しみがあっても、たとえ社会的には冴えない人生に見えたとしても、それは充足感や満足感につながる。
理由2:ただちに苦を全て避ければ良いというものでもない。
魂には、その時々の苦や楽から学びを得るという側面もある。
だから、学びを得なければ延々とまた似たような状況を引き寄せ、似たような経験を繰り返してしまうという癖が存在する。
そのため、一時的に苦を退けたとしても、学びが終わっていない場合、再び無意識に引き寄せられてしまい、戻ってしまうものも存在する。
しかも、そういった課題のある苦の場合、中途半端に退けてしまうと、元に戻ったときに、更に強化された苦しみに舞い戻ってしまうケースも多々ある。
そうなったら、ますます悲惨だと私は思う。
だから、今すぐに改善できる方法というのは良くないというのが個人的な考え方だ。
ただし、今すぐに一時的に避難しなければ身が持たない場合は話が別だと思ってもいる。
その場合は、一時的に避難した先で、課題の衝撃(現れ方)を和らげる必要がある。その方法もまた存在しているけど話が脱線してしまうので、これは別の機会に書こうと思う。
⚠でも、退けても良い苦もある。
それは魂の課題とはまったく無関係な苦のことである。
人というのは、社会的な情報や外部からの影響によって、自分にはこれが必要なんだと誤解することがある。
そういったものに邁進することで発生する苦しさは、ハッキリ言って経験するだけ毒になる(ゆくゆく魂の傷として残ってしまう)ものなので、避けて通った方が良いと私は思う。
それを避けて通るには、どうすればいいかと言うと、魂の声にきちんと耳を傾けることなのだ。だから私はその方法を重視するわけだ。
ただ、それはそれで、これが自分の要求だと誤解して、必要な学びの苦まで避ける(そして悪化する)場合もある。そういったときというのは、感情的だったりエゴが絡んでいたりする。だから私は、それを鎮める環境を重視しているわけだ。
理由3:他者依存を前提とした救済は脆い。
個人的な考え方だけど、あくまでも魂の旅の主役は当人だ。
いま生きているあいだも、そのあと死んだその先も、ずっと共に居続けるのは、自分自身なのだ。
その状態を維持するために他者が必要だという時点で、その他者が消えた時点で、それは儚く消えてしまう。
たとえ霊的な同伴者であったとしてもそれは同じで、必ず、絶対に共に有り続けるのは何か? といえば、それは自分自身なのだ。
ようするに最もアクセス可能な導きを持っているのは、自分自身の魂である。
そしてその存在は、他の誰よりも、自己の理解者でもある。
だからこそ、自分自身で自分の助け方を身につけるのが一番良いに決まっている。
もちろん、こうした方が良い縁が生まれるとか、こうすると魂を傷つける縁が生まれるとか、言えることは存在はしている。実際そこには仕組みがあるので解決策もあるにはある。
でも魂というのは、この世界に人間として生まれたという時点で、最初からまっさらな状態ではない。すでに築いてきたものがアレコレとある上での今である。
必ずそこには、過去から今までをずっと見つめ続けてきた魂(自己意識の根幹)があって、これまで何を求めてきたか、そして今回は何のために生まれたかを、それ自身が知っている。
だから、実際には解決策を渡しても、できないだろう。課題として抱えているものは知っても実行できない。例えば仏教の十戒を知っていたとしても、それが思うように守れない。そういう形として浮き上がる。
だから、その方法っていうのは、課題として持たないものを避けることしかできなくて、すでに課題としてあるものに対しては、時には課題から遠ざけて、学びを遅延させることにも繋がる。と私は考えている。
私が、どうしても求めてしまうものや、やめられないものは、無理に遠ざけてはいけないと思っているのはこの辺りが理由で、学びきったらちゃんと、憑き物が取れたように離れることができるから、できない自分を責める必要も、無理にやろうとする必要もないと思う、本当に。(ただし、学べなければ課題の無限ループが起こるので、絶対に学んでやるという意識付けはいるけれども)
でも、苦しみの元になる未来の課題として積み重なるものを減らす方法というのは、実際に存在しているので、それはそれで別の機会に書きたいと思う。