シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

神を初めて感じた日と、ヤタガラスの訪れ

私が初めて神様の存在を理解したのは、今から18年ほど前。中学生のころである。

そのとき、とくに瞑想らしい瞑想をしていたわけではない。とにかく、ある日突然、視界が明るくなり、空間のすべてに白銀の光が満ちた。愛としか言い表せない雰囲気の空気に満ちて、『苦しいと感じるから苦しい・楽しいと感じれば楽しい』というメッセージを受け取った。
ちょうどそのとき深く悩んでいた時期で、それから私の意識は切り替わり悩みが晴れた。

それとともに、1年ほど以下のような現象が続いた。

  • 蚊に一切、刺されなくなる(私はO型で、元から刺されやすいタイプだった)
  • 外に出ると雨が止んで傘いらずに
  • 二重の虹を何度も見る

他にも、不思議な出来事があった。
それは、そのような体験をしたあとの1週間くらい、カラスに付け回されたのだ。

私がいる部屋の窓をコンコンとクチバシでつつく。部屋を移動しても、その部屋を突っつく。
当時の私は意味がわからずに怖くなって、親に追い払ってもらった。
それから、そのカラスは私のところに来なくなった。

今から思うとあれは、いわゆるヤタガラスの導きだったみたいだけども、当時の私にはそれを受け入れる準備ができていなかった。
だから向こうも引き返したわけだ。

これをもったいないと感じる人もいるかもしれない。

でも、当時を振り返っても、それで良かったと私は今でもずっと思っている。
当時の私は未熟だった。

あの初めての神秘体験に感動して誰かに言いたくなった。
私が救われた言葉なら他の誰かも同じように救えると思った。

だから未熟だった。

私はほとんど何も理解していなかった。そう思う。

いま思うと、あれを通じて私が理解したのは、この世界がひとつであることと、宇宙意識がどういうものなのかと、自分の奥底には内なる宇宙があって、その深淵によって外なる宇宙と繋がっていて、自分の深部にあるとともに世界のすべてを包み込んでいる。という状態だけだ。
それを感覚的に体験して理解したというだけで、それを体験するというのは、あくまでも自分が何かを知るためであって、他者に干渉するための資格ではない。

まあ、今でもその資格があるとも思っていないし、そもそも救うという定義がおかしいとすら思っている(笑)

神様と呼ばれるような存在が、どうして人やその他の生き物、あらゆるものを気にかけているかというと、助けてやろうなんて大きなことは考えていない。
ただ、右手についた泥を左手で払うようなものだ。

私たちはみんな、ひとつですべてでもあり、すべてでひとつでもある。

だから、自分が助かったから他人が惑っていていても気にしないというのは正確ではない。
あるいは、先に助かった自分の手によって他人を助けるのだという考え方も正確ではない。

私たちは地続きで、本質的にはひとつだからだ。

たとえば大きな湖があって、透明な部分が自分だとして、濁った部分が他人だとしよう。
その濁った部分と透明な部分は、ひとつの大きな湖という立場から見ると別々の存在ではない。あくまでも湖の一部でしかないし、その両者というのは、何もせずに放っておけば混じり合うものだ。同じ湖の一部同士だからである。

世界が抱え込む諸々の意識というのも、そういう関係性にあるというだけで、それは助けるとか助けないとか、そういう話ではないというわけだ。

あの頃の私というのは、それをまだ理解できていない子供だったのだから、それで良かったと私は思っている。
とはいえ、それが私の源流だと思っているので、私のここでの名前はヤタガラスから取って、ヤタにしている。