シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

ネット義憤の落とし穴──怒りはいつのまにか自分の内側に宿る

ネット社会の落とし穴

今回は、これについて話をしたいと思う。
現代人にとっては最も身近にある課題だと思うからだ。

ネットでは、YoutubeSNSを通じて、日々様々な情報が発信されている。
中には感情や義憤を煽りたてるものも数多くある。

これの本質と落とし穴について、今回はスポットを当てたい。

その怒りの対象は、本当に実在する?

インターネットで見かける義憤の対象というのは、多くは、とてもわかりやすい悪の形を持っているかと思う。
だから、人々はそれに対する怒りを正義だと感じやすい。

でも、それによって発生している構造は、実際には以下の状態だ。

仮にインターネットに取り上げられた出来事や人物が本当だったとする。
それを見て、怒りを感じた。義憤を抱いた。

だが実際には、それが本当に存在しているのは、その出来事が起きた時、起きた場所においてだけだ。
実際には目の前には何もなくて、目の前にあるのは、ただの空虚な情報だ。

でも、それを見て怒りを抱く。

さらに、実際には何が起きているかというと、脳内で、インターネット上で見た悪者の悪事をリピートするかと思う。
それを繰り返せば繰り返すほど、どんどん怒りが増していくだろう。

しかし、そのときにそこにあるのは何かと言うと、すでにそこには悪者も悪事も無い。
実際に存在しているのは、自身が脳内で悪事を繰り返し思い返して、怒りの感情を抱くという自分自身の思考だけなのだ。

現実の現象から離れた時点で、それは現実にとっても虚像だ

じゃあ、そこには一体何があるかというと、実際に存在しているのは、自分が思い描いた内面的な悪という像に対して、怒りを感じている自分自身だけだ。

つまりその状況で何が起きているかというと、怒りや嫌悪や義憤という感情を自ら掻き立てて、自分自身の内側で繰り返し丁寧に魂の記憶に刷り込んでいることにしかならないわけだ。

悲しいことだけれども、それは魂の傷となるし、ゆくゆくの課題になるだろう。

具体的に、どうして傷になるか・課題になるかは、過去の記事に掲載してある。 shankara.hateblo.jp

私はこれに対して、個人的には、今の時代ならではの大きな落とし穴だと考えている。

人間の仕組みというか、そもそも意識の仕組み的に、目の前にあるものを実在だと錯覚しやすい性質がある。

私は人間が持つ、目の前にある文や情報に強い感情を抱きやすいこととか、とくにそれが危機を語るものであれば、不安や危険性を強く感じるというのは、それはもう仕組みとして仕方がない話だと思っている。人間というのは、そのような構造によって危機を避けたり守られてきた歴史があるわけだから。
今のインターネット社会というのは、その人間自身の本質的な構造を、利用されたり消費されやすい時代だと言えるだろう。

だからこそ冷静にものを見て、時には距離を置く選択も必要ではないだろうか? と感じている。