シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

死も生も幻想である──主観世界における死生観のしくみ

これまでの記事でも折々と生まれる前や死んだあとの話を取り上げてはいるけれど、あらためて、死生観について記事にまとめてみた。
以下がその内容となる。

私の抱く死生観について

私の死生観は、恐らく独特のものになっていると思う。
私のそれというのは、どこかで情報を得たとか学んだとかではなく、自分と繋がりある高次存在から直接生まれるとは何か死ぬとは何かを聞いたものだ。

生まれるとは何か? 死ぬとは何か?

生まれるとは、魂(私が"私"だと感じている自己意識)が生まれたと認識することであり、死ぬというのは、同じように魂が死んだと認識することである。

私たちというのは、生死が当たり前の世界をこれが世界だと認識している。だからこそ"私"の主観世界は、生き物というのは、生まれるし死ぬと認識する。

主観世界というのは、"私"という自己意識が感受している対象である。
世界は主観だという話を過去にしたことがある。 shankara.hateblo.jp

こちらの記事に書いているように、私たちが現実だと感じているこの世界というのは、実際には、"私"という自己意識が目で見て触れて五感を通じて、これが本物だ・現実だと感じていると実感しているものであり、実際には、自己が感じているものに過ぎない。

つまり、主観がこうであると認識しているから、世界はこのような形をしている。

だから正確には、生というのは主観が生まれたと認識したということで、死というのは主観が死んだと認識したことなのだ。
私たちが持つ自己意識、すなわち魂が、自己となる肉体に意識が固定されれば生である。そこから離れれば死で、それは自己の終わりである。と認識しているから、生まれるし、死ぬときには意識が途切れて記憶が断絶される(つまり魂にとっては自己の終わり)という経験をする。

本当は生も死も無ければ、過去世も今生も無い

私は普段、記事では、過去世や今生といった言葉を使うけれども、それはあくまでも魂が自己だと感じている範囲という区切りをわかりやすく言っているだけで、実際には、それは私を"私"だと認識する魂が自覚している意識の範囲の連続性の話でしかなくて、本当のところは、すべて"私"がそう主観しているというだけで、実際には、生も死も過去世も今生も無い。

だから、魂が肉体が終わると死ぬと主観しているから死があるだけで、そう主観しない魂にとっては、生まれるも死ぬも存在しない。

生死を超越する方法はある

生死というのは実際には魂(自己意識)の主観によるものだから、生まれて死ぬということを消すことはできる。
それは、主観からそのような現象を消してしまうことである。

肉体と意識とはまったく別々のもので、肉体の終わりと意識の終わりはリンクしていないと主観が理解し、それが自己の世界(主観世界)になるようになれば、死で終わらない現象を、主観は感受するようになるため、生死は存在しなくなる。

その具体的な方法はどうすればいいかと言うと、瞑想による肉体と意識が分離する経験を、肉体と意識は別だと魂が実感できるまで、繰り返し行うことである。そうすれば、生まれて死ぬという体験・現象に囚われずに済むようになるらしい。

死んだあとどうなるか?

これについては、魂(自己意識)が死ぬという現象を現実だと捉えていようとも、いなかろうとも、魂が潜在意識に抱え込んでいる情報が次々と投影されていくことで世界(主観世界)という形を取るということには変わりがない。

だから、自分の魂の記憶の部分(潜在意識)にどのようなものを抱え込んでいるか? によって、次に「私は生まれた」と自己意識が理解したとき、それがどのような環境下で発生するかは変わってくる。

この世界では肉体を維持したまま生死を超越する可能性は極めて低い

前に、別記事で「主観世界への魂の記憶の投影というのは、夢に似ているけど、夢とは違って、連続性があって、辻褄があって、世界に根ざしていて、現実的だ」と少しだけ話したことがあったと思う。

例えば、箱にボールを詰め込む光景をイメージしてもらうとわかりやすいかもしれないけど、夢というのは、曖昧で朦朧とした世界だ。つまり、箱の中のボールがスカスカになっているようなもので、そのために、手元にある色んなものを投げ込める。
一方で、私たちが現実だと認識している世界というのは、ボールがギューギューに詰め込まれた箱のようなものだ。だから、手元にある何かを次々に投げ込もうと思っても入らない。邪魔なボールを取り除いてから、取り除けたぶんだけ新しいものをやっと入れられる。

このように、夢と違って主観世界というのは、すでに用意された場所や環境や状況が揃わない限り、繋がりがそこにない限り、突然、まったくその世界とは別の形状のものを現象化することはできないのだ。

この世界というのは、生があって死があることが当たり前だ。そしてそれを自己の世界の形としている人が多数派である。
それが多数派というのは何を指すかというと、すなわち、自己意識にとっても、そのような世界の姿をしていて、生死を超越するというのも、そこからの連続性として繋いでいかなければならない。

だから連続性として繋がりを作りにくい、肉体を維持したまま超越するという現象は、極めて困難な世界の形をしているというわけだ。