シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

解脱は目指さない?高次存在から教わった魂の旅と仏教の違い

私は10代の頃から高次存在とのパイプが開通して以来、少しずつ瞑想、イメージ、夢、(近年だと言葉も)などを介して、ここのブログで公開しているような知識を受け取ってきた。

個人的には、これってもしかして仏教に似ている世界観なんじゃないかな? と思うんだけど、調べてみると、どうやら違いがけっこうあるみたいなので、今回はその違いに、私なりに触れてみようかと思う。

といっても私は仏教徒ではないので、仏教に対して間違いがけっこうあるかもしれないので、ご了承いただければと思う。

1.輪廻転生との類似と違い

仏教にある、輪廻転生と似ていると思う。
でも、私が高次存在から受け取ったものだと、実際には、それはただ、そう観測できる形をしているということになる。「生死や過去世や来世というのは、魂がそのように観測しているから、それがあると認識している」という範囲のものだと感じている。

2.因果応報との類似と違い

魂の記憶として蓄積された情報が、やがて主観世界に投影される。という仕組みにおいて、「自分の言動が最終的には主観世界に現れて自分自身が経験することになる」という構造が似ていると思う。
でも、それは宇宙の秩序における、業や罰や罪ではない。ただの仕組みとして機能しているものだという部分が、違う部分だな思う。

3.解脱を目指さない

一番違うと思うのが、解脱を目指さないところだと思う。

その境地がどのようなものなのか、どうやってそこに行き着くのかは、一応、知っている。
それは、最終的には、ただ在る者になるのだという。
魂の記憶というのは、主観世界に投影されることによって消化される。しかし観測して吸収する(意識を向ける)ことで、再び魂の記憶となる。
そのため、最終的には投影だけをして観測しないという境地へ至る。そこへ至るには、あらゆるものを手放していく必要がある。たとえば死は無いと魂が認識することで死が無くなる。同じように、あらゆるものが無いと魂が認識する。それによって、あらゆるものを消していく。

すると最後にはただ在るものになる。

でも、魂の記憶が残っているあいだは、主観世界の投影は終わらない。
その投影に心を動かさない、行動にしない、言葉にしない。そうやって、ただ見送るだけの者になる。
そうすると、やがて投影が終わる。最後に、自己意識も存在しないものだと魂が認識するようにする。すると、もはや宇宙意識にあるひとつぶの"私"ではなくなって、宇宙意識そのものに還る。
これが解脱というプロセスになる。

宇宙意識の状態というのは、深い落ち着いた安らぎと、ゆったりとした幸福感、満たされた感覚だけが、そこにはある……らしい。

解脱というのは、私が過去に何度か記事にしたことがある、生死を越えるプロセスとは異なるものだ。あっちの方は、ただ死を消すというだけだ。
生死に伴う意識の断絶や世界の断絶が起こらなくなるというだけで、べつに解脱という状態ではない。

で、このような生死を超えた状態にある存在というのが、私たちが普段認識していないというだけで、実際にはけっこうある。
彼らは肉体に囚われていないし、同じ世界にはいないから、私たちと基本的には交わることがない。

なぜかというと、世界がかなり違うからだ。
前に過去記事で話したことがあるように、個々の主観世界というのは、連続性があって、辻褄があって、世界に根ざしていて現実的な範囲のうちでしか、魂の記憶が現象化しない。とお話したことがあると思う。
ようするに、あまりにも世界が違いすぎるので、基本的には私たちの主観世界としては現象化することがない。

かろうじて夢や瞑想や幻覚とも疑われるような個人的経験といった、物理現象という連続性を阻まない範囲でしか現れてこない。というわけだ。

なので、そもそも、それが体験できる時点で、その世界との縁(つまり魂の記憶)を持っていたり、その世界に魂の状態が近かったりする。
そうでなければ、なかなか主観世界の中に現れてこないものである。

それはさておき、私にアドバイスしてくれる高次存在というのが、この部分に該当する存在で、解脱している存在とかではない。

彼らもまた宇宙意識へ還る旅の途中で、ただ、人間よりも宇宙意識の状態にだいぶ違い。魂の記憶というのもかなり少なくなっているし、魂の意識としても、宇宙意識の状態の感覚にだいぶ違い。

そんな彼らでも解脱していない。

ましてや人間をやっている世の中の大半の存在にとっては、ほぼ不可能と言えるような境地である。限られた魂エリート(?)だけが選べる道。

そのような対象なので、そこを無理して積極的に目指すことによって、逆に魂の課題と向き合えなくなったり取り違えたりして、足踏みしてしまうケースもある。

私の聞いたところによると、なんでも、高次存在にも色んな派閥があるらしい。
派閥といっても、バチバチに敵対したり争い合うというわけではなくて、魂の道しるべの方法のための、アプローチに対する考え方や方法が違うというだけだ。

もう、ビシバシと厳しくしてでも、リスクを追ってでも、ガンガンとやっていくべきという派閥もある。
たぶん、解脱を目指すとかなってくるのは、そっちの派閥の神様のルートなのかもしれない。

私と繋がりのある高次存在というのは、そういう系ではなくて、だいぶ優しいというか、ゆるいというか、まあそういう系だ。なので、それぞれのペースを重視するタイプのようだ。
だから解脱を目指せ〜みたいな話にならないのだと思う。

先述したような最終的に宇宙意識へ還るという段階というのは、魂の課題を済ませて、満たされて手放すプロセスを踏んでいけば、一歩一歩、着実に近づいていくものだ。
魂の旅の最後の最後にいずれ至るという前提が存在してはいて、それよりも、今のそれぞれの魂の現状を踏まえた上で、魂のペースに合った課題に取り組むのを良しとする。だからこそ魂の声を聞くことを重視する。それぞれの心の奥底が秘めている各自の芯を重視する。
劇的な手段ではないものの、「確実に今よりも良くなる」というルートを重視しているタイプみたいだ。

そんななので、私も彼らの影響を受けて、同じような考え方をしている……というわけだ。

ということで3の項目がだいぶ長くなってしまったけど、一番の違いはここじゃないかなと個人的には思ったりする。


といっても

べつに仏教を否定しているわけではない。

今回のは、ただ、なんか似ているような気がしたんだけど、意外とそうでもないかもしれない。こういう違いがあるよ〜というだけの記事である。