シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

肉食は悪か?生きることと魂の学び

肉食は悪いこと?

現代ならヴィーガン、伝統的には菜食主義といった、肉食を悪とする価値観は世の中にたくさん存在する。 では、高次存在視点では肉食ってどうなのか? というのを今回はお話したいと思う。

魂の傷を生むのは事実

それは肉食自体がそうというよりも、生き物を殺したり痛い思いをさせるというところに苦の因子を生む要素があるのは事実。

その因子を直接受けるのは、食する人よりも、それを屠殺する人になるだろう。ただ、間接的な要因になったという理由では、紛れもなく苦を作っていることは間違いない。

ただし

人間というのは、様々な食べ物を食べることによって栄養が取れるようにできている。

否、実際には、主観世界を単食でOKにできた人は、シンプルな食事で生きられるし、主観世界によっては菜食や不食を達成することも可能ではある。

それでも多くの人にとっては、そうではない。

これは多くの魂にとって、食べること・食べられることを魂の課題として持っているということでもある。
だからこそ私は、こう思う。
確かに苦の因子を生む。でも、課題として抱えているから、無理をして避けるほどのものでもない。
それが最適解だと思っている。

というのも、個々の魂にはそれぞれ課題があり、課題として持つものを避けることは極めて難しい。
課題としてある以上、やらなければいけないと固執することは囚われしか生まない。

それが固執になってしまうと、例えできたとしても、できない人は劣っていると見下したり批判や怒りの原因になってしまう。逆にできなければ、できない自己を卑下したり自己嫌悪になるだろう。
それは魂の状態として、まったく良くないことなのだ。そのような感情を生み出してしまうことは、囚われてしまって、むしろ逆に苦の因子を生み出す要素になってしまう。そうなったら本末転倒だ。

だから、無理をして固執するくらいなら、課題として受け止めて、学んだほうが良いと私は思う。
学び終えたら、課題は終わって自然と離れられるのだから。

だからこそ個人的に思う最適解としては

  • 日々、誰かの命をいただき生きている事実に目を向ける。
  • なるべく食べる命の数を減らしたり、苦痛の少ないものを選ぶ。
  • 屠殺する際は苦痛の少ない方法を選ぶ。

さらに、これができたらベストだろうなと思うのは:

  • 食物連鎖として堆肥化などを目指して命を還元する。

そもそも

人間として生まれてきた時点で、あらゆる命を殺さないことは不可能だ。
生きては死ぬことそのものが、課題として組み込まれていることは自明の理である。

というのも、私たちはただ在るだけでたくさんの命が消えるようにできている

息を吸って吐くだけで無数のバクテリアや菌が死滅する。
お風呂に入るときも、歩くときも、顔を洗ったり歯を磨くときも、ただ拭き掃除をするだけであっても、無数の命は死んでいる。

ハッキリ言って飲食によって使われる命や苦痛は、それらの数の上では誤差のようなものだ。

でも、それとともに以下のようなことも言える。

私たちはひとりひとりが小さな地球だ

普段は誰も意識しないけれど、私たちは確かに生きているだけで多くの命を使う。でも、それと同時に無数の命を生み出してもいる。

私たちの体には、たくさんの微生物が住んでいて、生まれて暮らして生きている。
この肉体が無ければ、ここにある生態系は存在しない。だから私たちは無数の命を育んでもいるというわけだ。

微生物なんてと思われるかもしれないけれども、微生物というのは、あらゆる環境を下支えしている存在だ。それが無ければ酸素も無く、植物も育たないし、動物すらも生きられない。
私たちというのは、ただ在るだけで、そういうものたちを育むための土壌にもなっている面もある。

私たちというのは、食物連鎖の中にあって、それは確かに課題として宿命付けられている

だから、しっかり栄養を取って、排泄して、堆肥化してまた畑に蒔く。それが草木を育み、やがて草食動物を育み、肉食動物も育み、人々をも育むだろう。
でも、そのサイクルの中でも、食べるということに考えを巡らせ、事実を受け入れて、少しずつ意識して、食べる命の数の少ない選択をする。

こう在れることが本当はベストなのだろうなと私は思っている。