性別に優劣はない──高次視点で語る男女性の本質
インターネットでは、男女どちらが上か下かという論争に遭遇することがままある。
古今東西、そのような論争っていろいろな場所で起こってきたと思う。
そこで今回は、男とは? 女とは? をテーマにした内容を、高次視点から書こうと思う。
男である意義と女である意義
結論から言うと、そんなものは無い。幻想だ。というのが答えだ。
ただ、魂というのは、自分の課題をこなすためにふさわしい肉体を持って生まれてくる。
それは男女性に留まらず、あらゆる生命という器――つまり、人間か? 動物か? 植物か? 微生物か? あるいはそれ以外か? そういうところにおいても関係があることだ。
それと同じように、男女という器にも課題のための理由がある。
だから、このタイミングでは性別があって、男性であり、女性であるというだけで、それ以上の理由だの価値だの、況してや上下関係や優劣のようなものは本当だったら、どこにも無い。
そもそも、魂の長い旅路において、女性はずっと女性の器ではないし、男性はずっと男性の器ではない。
よく男性の方が優れているとする理論が、特に伝統的なものの中には、宗教観であってすら多いけれども、あれは、あくまでも男権社会の中において、男性の権威の裏付けのために人間が解釈や、時にはそれそのものを歪めただけのものであって、本来そうではない。
昔と今の違い
たしかに昔は、女性の方が苦の因子が多くて本質から遠い魂だという話もあったが、それは、女性性そのものに付随するというよりも、その社会的仕組みの中にあった。
昔はそれこそ、女性は男性の所有物であり、資産であり、意のままにできるという思想が根強かった。女性として生まれた時点で男性のために生きることが決定づけられてしまうほどの文化圏すらあった。
そのため女性は多くの不自由や苦労を背負い込んでいた。そのような文化に根ざす不自由さや苦労の多さや理不尽さ・そこにスポットを当てた上での話でしかなくて、本当は女性性そのものに対する話ではない。
そのような文化的背景を当たり前に持たない土地や文化や時代においては、そのころと、まったく同じものが適応されるわけではない。
でも、その話を、権威や文化的な文脈に沿って解釈を歪めて広げていった人々がいる。それだけの話でしかなくて、そんな本質は本当だったら、まったく語られていないはずだ。
増してや、少なくともここ現代日本においては、等しく当てはめて良いものではない。
男に生まれた理由・女に生まれた理由
では、どうして男性性に生まれる人と、女性性に生まれる人がいるのか?
それは、先にも言ったように、魂の課題に起因する。 誰でも、自らが持つ魂の課題をこなすのにふさわしい存在として生まれてくる。
では、男性にはどんな課題があるか? 女性にはどんな課題があるか? というと。
一般的には、女性は愛を通じた学びを得るための肉体であることが多い。
それは異性関係、親子関係、果ては子供や動物との関わりを通じて、愛を与えたり、感じたり、あるいは不足が課題の場合もある。そのため他者に警戒されにくい肉体を持っていたり、共感を中心とした社会性を持ちやすいというわけだ。
それは闘争というものを、ほとんど課題として持たないからだ。
一方、男性は闘争を通じた学びを得るための肉体であることが多い。
闘争といっても、暴力や戦争といったものに関わらず、社会、学問、趣味、あるいは恋愛にいたるまで、色んな場面が挑戦という形で出てきやすい。
そこでの勝ち負けを通じて学び取るべきものがあるからこその、男性性なのだ。
一方で、女性ほど愛による学びが強調されにくい人生を送りやすい傾向がある。
これはあくまでも一般論で、例外も中にはもちろん存在する。
たとえば、過去世でけっこうな修行者で生を選べるようになっている人が、あえて男性を選ぶとか女性を選ぶとかしているケースもある。
そうは言っても、いずれも、魂が抱えている課題に挑むために必要だからこそ、持って生まれている体だったり、環境だったり、役割だったりする。
そこにはもちろん優劣なんか無い。
あるのは魂の課題に対する必要性だけだ。
性別違和について
では、男性なのに女性的な人や女性なのに男性的な人は、魂の課題に向き合えていないのか? というと、そうではない。
性別の認識や恋愛対象が世間一般的なものと異なる人というのも、それはそれで、そう在ることによって学ぶべき課題が存在するからこその形だ。
とくに過去世で性別がない体験が当たり前だと、性別にこだわりがなかったり、男性性が多いと男性的に、女性性が多いと女性的になるという傾向もある。
男性に生まれるのも、女性に生まれるのも、果ては人間として生まれること自体、課題に対して適切だからであり、それは、性別違和や恋愛対象においても変わらず同じである。