シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

なぜ満たされない? 魂の幸せと現代社会のすれ違い

今回は、幸せに関する話をしようと思う。

幸せとは何か?

たぶん、幸せというのは普遍的なテーマだと思う。

幸せには2種類がある。

  • 魂(自己意識)が望む幸せ
  • 表層意識が望む幸せ

魂(自己意識)が望む幸せ

これはけっこう普遍的で、万物に共通する「指向性」のようなものがある。それというのは、宇宙意識に還った状態だ。

魂(自己意識)は誰でも最初は宇宙意識そのものだった。それが、限られた意識を"私"と認識したところから、宇宙意識のひとかけらだけを「これが私である」と理解する、独立した意識であるかのように分離した。

だから魂は誰でも宇宙意識の状態のことを奥底で覚えていて、それがどのような状態だったかを深層では知っている。そのため、その状態だったときに感じていたものを求めている。

それは、安定していて落ち着いた尽きない幸福感の状態だ。
ただ在るだけで何もしなくても、ふわふわと幸せで、満たされた状態になる。

この状態に至ることを、魂自体が普遍的に求めているんだけど、多くは表層意識(表面的な感情や価値観)によって覆い隠されている。

表層意識が望む幸せ

これは、人それぞれ異なるとされる幸せだ。
生育環境や文化的な影響、経験を受けて構築される、各自が持つ理念のようなものだ。

人によっては家庭だったり、社会的成功だったり、モテ、富、色々と異なる。

でも、それが幸せだと期待していたのに、いざ得ても虚しくなるものもある。
それは、魂が望む幸せと違ったと理解したら起こる感覚だ。

その虚しさは、課題を超えたときに起こる感覚だ。

それが起こらず、心から幸せだという場合、それは課題としてある豊かさだからだ。その充足を経験することも学びのひとつで、それを得ることと手放すことを学ぶ過程の途中だから、納得できる

つまり表層意識的な幸せを幸せだと感じるのは、魂の課題との一致が条件となる。

それでも、なぜ、最終的には虚しさの段階へ至るかというと、先の項で説明した、魂(自己意識)が望む幸せの状態へ還ることが、けっきょくは魂自身が長い旅路において望んでいるゴールだからだ。

けっこうこの部分は普遍的であり、課題の段階を超えていった魂は、必ず最終的にはその地点へ行き着くと言って過言ではない。

表層意識の幸せの課題を超えた先にあるもの

正直に書くけど、そうなってしまうと、現代社会の仕組みで充足感が得られることは、ほとんど無くなってしまうだろう。

むしろ逆に、しんどさとか、疲労、得体の知れない焦燥感、虚しさ、自分の居場所だと感じられない。
そのような状態に陥る。

それでも、何もわからない状態だと、幸せの定義を変えられなくて、例えば富だったら、「いや、もっと稼いだら、どこかに満足点があるかもしれない」と思って、もっともっと、いっぱいいっぱい、と深化してしまう。

この深化の状態に入り込んでしまうと、精神的に苦しいことや辛いことが増えてしまうし、新しい苦しみの因子を潜在意識に取り込みやすい。

本当だったら、このときに、深化するのではなくて、「自分の課題は終わったんだ」と認識できて、次のステップに移れるのが理想なのになと私は思う。

次のステップというのは、魂自体の本質的な幸せを追求する段階である。

それがスムーズに選べる環境があったら、幸せになれる人は、世の中にもっと多いはずだ。

でも、現代社会の仕組みの中には、それができる仕組みってほとんど存在しない。
だから現代人というのは、深化の方向へ向かってしまう人が多い。

そうなっていることが悲しいと思う。

次のステップに移るという選択ができるように、選択肢のひとつとして、それができる仕組みを作れたらな……と思ったりする。