人間の善悪と魂の法則は違う──報われない人の本当の理由
「この人は良い人なのに、どうしてこんなに報われないのだろう?」
そんなふうに不思議に思われるような人がたまにいるかと思う。
今回は、人間が考える善悪と、実際に魂に蓄積される苦楽の因子の違いについての話をしたいと思う。
人間の善悪≠魂の苦楽
人間が思う善悪と、魂にとって苦の因子になるか・楽の因子になるかというのは、まったく関係がない。
それもそのはずで、人間の善悪という基準は、基本的に人間社会が潤滑に回ることを目当てに築かれてきた価値観だ。
だから実は、それをすることでゆくゆく幸せになるか・不幸になるかということは計算に入っていない。
ただ、人間社会(ないし自己が属しているグループ)にとって安全に貢献したり価値を生むことは善で、危険を及ぼしたり損害を与えることは悪だということの上に成り立つ基準である。
対して、苦楽の因子というのは自然現象のようなもの。
主観世界との関わりによって魂の記憶として蓄積され、それがゆくゆく主観世界を形作る因子となる。
そこには人間社会に対する忖度はないというのが実情だ。
雨が降れば濡れるように、持ち上げたボールから手を話すと落下するように、主観世界との関わりが、ゆくゆくの因子を作る。
それは因子として現象化するまで、潜在意識の中に情報として保存され続ける。
この両者は、そのメカニズムも、成り立つ理由もまったく違う。
だからイコールではないことは当然なわけだ。
それでもある程度は共通する理由
たとえば、人をむやみに叩いてはいけないよ。とか、他人のものを盗んではいけないよ。とか、そのような人間社会にとって悪とされるものと、ゆくゆくの苦の因子を作る要素になるものが重なるものも多々ある。
これは、たまたまの一致なのか、意図してなのかは不明なものの、基本的には、他者を傷つけず利する行為というのは楽の因子として繋がりやすい。
それと、社会的安定という効果が一致しているから、重なるものもあるのだろうと思われる。
重ならないものもある
最もわかりやすいのは、人間社会と関係ないものに対する態度である。
たとえば、害虫を殺すのはまっとうだという価値観がある。
これは、人間社会の安定と利益という面から見れば、確かにそうなるだろう。
その一方で、魂に因子を作る面から見ると、「自分を害するという理由(あるいは不快だという理由)で殺す」という情報を蓄積してしまうから、良くないということになる。
実は人間同士でもある重ならないものの例
実は人間同士の関係でも、重ならないものがある。
たとえば人によっては、悪口は潤滑油だという価値観がある。
これもまた、確かに人間社会の安定と利益という視点から見ると、肯定される場面があることは理解できる。
でも、それは「悪意を表現する」という情報を作ることでもある。だから、魂の因子を作るという面から見ると、苦の因子になる可能性が高い。
他にもたとえば、一見、肯定されやすいものでも、よく見ると実は魂にとって良くない構図になるものも中にはある。
もうひとつの報われにくさのパターン
報われにくさを感じる要因は、このように人間の善悪と魂の苦楽を履き違えているというケースの他に、もうひとつのパターンがある。
それは、魂が課題をこなすことを目的にしているパターンである。
前に人生の苦しみと魂の記憶──その学びの意味にて、魂は課題を持って生まれてきているという話をしたことがある。
ここで語った課題は、経験するための課題だが、この場合の課題は手放すための課題だ。
その場合、魂の目的は、魂の記憶として持っているその情報を出し切ってしまう(=出し切ると因子がなくなる)ということになる。
魂はその因子からすっかり離れてしまいたいから、情報を出し切ろうとする。 でもその過程で、そのことを知らずに、せっかく出した因子を再び蓄積してしまう状態に陥ると、ループが起こる。
そうなると、なかなか報われにくいと感じる。
最後に、ループから早く抜け出す方法・緩和する方法を書いた過去記事を紹介して、この記事を終わろうと思う。 shankara.hateblo.jp shankara.hateblo.jp