シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

私の在り方と発信の源──高次存在との関係から生まれる言葉たち

私のスタンス

私はいつも、ここのブログに書いているような情報を、どのようなスタンスで発信しているか? というと、以下を心がけている。

  • 高次存在のスタンスに合わせる。

自分にとってのお手本は高次存在なので(師扱いは嫌がるけど)、基本的には彼らを習うようにしている。

たまに迷うことがあると、質問したり相談もする。

そうしながら書いている。


個人的な方針

私は彼らを敬愛しているから、自分の行動もそれに倣いたいといつも思っている。

  • 彼らは何者かを責めることも否定することも一切なくて、
  • いつでも穏やかで、
  • 多少ムッとすることはあっても激しさはなくて、
  • 愛と尊重が当たり前。
  • 相手の魂やその課題を深く知り、主体性を常に尊重する。
  • 善悪や上下の概念がない。

彼らはこれでいて、こういう性質もある。

  • 自分のことを犠牲にしているわけではない。
  • ありのまま・自然体に・自由に振る舞う。

彼らが慈悲深く見えるのは、我慢とか自己犠牲で成り立っているわけではなく、自己も大切にした上で、ただ目的が一致しているからだ。

だから私も、そう在りたいなと思っている。

自分もそんなふうでいたいと思うから、そういられるように心がけているけれども、それはあくまでも心がけだ。
私のほうは人間だから完ぺきではない。

だから、なにかに影響を受けることも、嫌になることも、腹が立つことも、冷たい気持ちになることも、時には過干渉になってしまうこともある。

それでも彼らを倣いたい。というのが、私の個人的な方針だ。


そもそも実際のところは、いくら優れた聖人になろうとも、人間というのは、常に精神性を落とすリスクを抱えている。

なぜなら、私たちの意識は繋がっているからだ。

この世のありとあらゆるもの、くまなく世界にある個々が、世界意識という根源のひとつぶの滴りのようなものだ。

大きな湖の東側の水と南側の水は、別々ではない。同じひとつの湖の一部だ。

そのため、人間世界に生きる人間という肉体を持った人間である限り、完成形というものはない。
つねに人間という主観世界に接続された状態だからである。

「ここまで届いたのだから、もう私は大丈夫」と思うのが落とし穴だったりする。

私もそれと似たようなもので、高次存在に合わせるのを意図してできるし、繋がること自体は簡単にできるまでになっているけれど、それをもってして人間をやめたというわけではない。