シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

『正しさ』は自己紹介:魂の記憶が投影する他者の言葉

他人に向けての「〇〇すべき」は自分に課したもの

よく、他者に対して「〇〇すべき」とか、「普通は△△だ」などと言う人がいる。

このような人に遭遇すると、深刻に受け取ってしまったり、落ち込んでしまうかもしれない。

でも、その必要はないという話と、その理由について今回は説明しようと思う。

他者は他者の主観世界で生きている

自分が自分の主観世界で生きているのと同じように、他者もまた他者自身の主観世界で生きている

だから本質的には、自身の主観世界に「〇〇すべきだろ」と言う人が映り込んだとしても、自己の世界にとって、その多くは意味がない。
『自己世界を他者世界に押し付ける人が居る』という現象そのものには意味があるけれど、それは魂の記憶(自身が過去、抱え込んでしまった因子)が投影されただけの結果に過ぎない。

魂の記憶が因子となり世界に投影する仕組みについてはこちら⏩

だから、例えばその言葉で不快になったとしたら、それはマイナスの因子だったわけだから、次にまた自身がそれを蓄積しないように気をつけるための反面教師としての価値はあるだろう。

いやいや、導きとしての第三者の口を介した言葉もあるかもしれないし……と思ったら、そのときは、それを判断する良い指針がある。
高次存在というのは押し付けてこない。もっと、さり気ない言葉で自身が気付くのを促してくる。

そのため周囲の人間が高次存在と結びついて、たまたま降りてくるメッセージというのも、多くは押し付けがましさを持たないはずだ。

考える余地がしっかりとあって、否定という形を取らない。

その一方で、その言葉が為になる・自分の役に立つと感じるものだったら、受け取ったら良いものだと思う。
それが自身の主観世界の中に、我がものとして取り込むということになるだからだ。

じゃあ、他者が言う「〇〇すべき」「普通は△△だ」という言葉の中に含まれる、〇〇とか△△という具体的要素というのは、一体何だろう?

他者自身が抱えているもの

その〇〇とか△△というのは、他者が、他者自身の主観世界の中に持っているものにしか過ぎない。

主観世界というのは、自分と他人と同じものを見ていると思うかもしれないけれども、実際には、よく似た要素を持つだけの別々の夢のようなものである。

つまり、異なるものである。

だから、他者の語るものというのは、他者自身が持つもので、他者自身が、そのような世界に取り巻かれているという自己紹介のようなものだ。

だから、それを言われて不快になる経験自体は、魂の記憶があったからだと考えて良いものである一方で、その具体的な内容まで真に受ける必要はないということである。


以下は少し本題から脱線するけれども、だったら、もうひとつ考えうるかもしれない疑問。

世界が異なるなら、自分の言動は他人とは無関係なのでは?

これについて説明しようと思う。

確かに主観世界を軸にして考えるとその通りだけれども、それでも自身の主観世界に確実に影響を与える。
先のリンク先にも合わせて説明しているけれども、自身の主観世界に最も影響を与えるのは、自分自身だ。

つまり、どんな酷いことでも何をやっても良いと考えるのは、自分の世界を苦の因子で占めるための片道切符を手に入れることに匹敵する。

自己の本質は宇宙意識。傷つける対象も宇宙意識。

主観として現れる景色は異なっていても、同じものが傷つけ合うループに入りかねない。

あたかも、自身の右目がえぐられたからといって、えぐった自身の左手を恨んで切断するような状態である。

そんな状態に入り込まないためにも、むしろ逆に、自身を取り巻くもの・主観世界というのは、自分自身の幸福に深く影響を与えると考えて行動したほうが良い対象なのだ。