シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -

瞑想・前世・白昼夢。自分の見て感じる世界に対する考察・感想・検証の独言。

黒い部屋と、娘の悪夢──霊的体質の娘の部屋の浄化記録【全4話まとめ】

ここ最近はしばらく浄化作業に時間を使っていました。

娘が「怖くて寝たくない」と訴える日が続いたからです。
毎晩のように悪夢を見るらしい。

部屋を交換してみると、そこには外の光さえ通さない、異様な“黒さ”が広がっていました。

これは、霊媒体質の娘を持つ母である私が、数日がかりで行った「空間の浄化」の体験談。

せっかくなのでブログのネタに丁度いいかなと思って、状況も落ち着いたことだし、まとめることにしました。


各話リンクはこちら(全話別ブログで公開中)


この出来事について

娘はめちゃくちゃ霊的に敏感なタイプで、すぐに体を壊したりするため、今後もこのような出来事には事欠かない可能性が……。

そのときにはまたネタになっているかも?

もっとも、娘自身で解決できるように指導中なので、この先、このようなことが無くなっていくことを願ってるけれども。

彼女の存在を通じて、霊的な保護が必要な人ってこの世に居るんだなあというのと、その対処法を、勉強させてもらっている日々です。

医学的なアプローチもしてきましたが、それでは解決しなかったものが、気功や祝詞など、目に見えない領域でスッと解消されることもあるという……
不思議で、でも目の前に起きてしまうと、これってリアルなんだなと受け止めるしかない出来事たち。

きっと経験ある方は、共感できるんじゃないかなと思います。

私は個人的には、子供を介した親の苦労というのは、親にとって必要な出来事だから起こることだと受け止めています。
私の成長のために必要だからこそ、子供を介して起きているのだと考えて、日々向き合っています。

▶ 記事は別ブログにて公開中

ブログ移設しました - 新しい場所で続けます

当ブログシャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト -を移設しました。

新URLは以下です。

シャンカラの樹の下で - 瞑想とヒトリゴト - 本館 https://blog.shankaranote.com

移設の理由

これまで、ここでブログを書き溜めていっていましたが、ブログでは読みにくい内容が多いことがわかったため、シャンカラノートというWikiにまとめることにしました。

その際にドメインやスペースを取ったので、せっかくなら、今後はそちらを活用していきたいなと思って、移設に踏み切ることにしました。

今後の流れ

移設といっても、記事の完全な移行は済ませていません。

とりあえず場所を作っただけといったような状態で、めぼしい記事だけ、少しずつ移行を進めようかなとは思っています。

基本的な移設の目安としては、シャンカラノートhttps://shankaranote.comにまとめ終えた内容は、このままここに残しておくつもりです。

今後の新しい記事は、本館側に書いていこうかなと思っています。

こちらはこちらで、せっかくの最初のブログなので、ゆるりと概要などを書き残すのに使うかもしれません。

今後の運用については、のんびりと考えながら、これからも続けていけたらなと思っています。

神社の空気、霊の匂い、神々の導き――私の感覚世界

私は、瞑想などで個人的な神々との繋がりを持つ一方で、神社へ行くのも好きだ。

神社というのは空気の良い場所だと、透明な水のようにキリッと澄んでいたり、甘い味がする。

まろやかな空気を持つ神社にも行ったことがあるけれど、ああいう空気は神社の中では珍しいと思う。ちなみに確か奈良県にある。

個人的に行ったことのある神社の中で空気が良いと感じる神社は、以下。

これらの有名所だけでなく、小さな神社やマイナーな神社でも、空気が良い場所はとても良いと思う。

とくにエネルギーにあふれている場所というのは、大量のプラーナがあってキラキラと輝いて見えたりもする。

一方で、空気が悪い神社というのは、空間が暗く見えたり警戒信号がピリピリと出るので、私は近付くことはできない。

神社というのは相性もあり、人によって居心地の良い場所もあれば、居心地の悪い場所もある。

だから例えば、他人は空気が悪いと言うけれど、私にとっては居心地の良い場所もあった。

あたりがその代表例だと個人的には思う。

このへんは、合わない人には本当に合わないみたいだ。
おそらく霊がけっこう来る場所だからだと思う。

いちがいに霊が寄り付くからといって、ダメということもない。
人間にも善人も悪人もいるように、霊も同じことで、霊=すべて悪霊というわけでもない。

ただ、そのあたり敏感な人とか気になる人は、好かないんだろうなと思う。

私は憑依体質ではないから平気――ということもなく、憑かれるときは憑かれる(笑)

といっても、けっこうハッキリと目的や思念があるタイプ(つまりこちらを見てくるようなタイプ)にはそうされる事もあるけど、そこらへんをウロウロしているだけの意思がない浮遊霊に憑かれるわけではないので、平気なのだと思う。

むしろ憑かれたときは、こういう場所(霊の溜まり場)へ行くと置いてこれたりもするので、それを利用することもある。

自分の場合、霊については嗅覚で感知するタイプだ。

低級霊がいる場所というのは、獣臭さや線香臭がするのでわかる。

あとは、よほど淀んでいると空気でもわかる。その場所だけトーンが明らかに沈んでいたりする。

霊自体が視えるわけではない。

子供時代には見たことがあるけれど、霊が視えるというのは、あまり良い状態ではない。

霊と世界が繋がるような状態になっているので、自身の持つ空気もよどんでいるということでもあるからだ。

霊よりも神々と繋がっている方が、がぜん良い。

でも、日本の神様というのは、「触らぬ神に祟りなし」といった方向性なのか、たまに『神様に祟られる』とかいうホラー系の体験談とかがネットにあったりとかするけれども、正直、私はああいう系の神様って、まず見たことがないので、本当なのか、それとも作り話なのかは、さっぱりとわからない。

ああ、でも、ひとつだけ思い当たる節といえば――

私は子供の頃から、人間関係に強い制限を受けていたんだけど、思春期に入ると周りの子と同じように恋愛をしてみたくなった時期があった。
それで、自分で異性を選ぼうとした時期があった。ところが、良いなと思った異性は、事故や病気などで必ず足を切断して疎遠になった。

必ずだった。

例外なく、場所は足で、膝から下。

それが3人も続いてしまったから、それきり、私は自分で異性を選ぶのを諦めた。

ただ、友達関係でも、私を加護している神様が「良くない」と判断する相手だと相手が転向や引っ越しをしてしまうみたいなので、自分で誰かと繋がりを持つことは積極的にはしないようにしている。

ああそうそう、職場環境なども同じで、必ず何らかのトラブルや環境の変化が起こって辞めることになるから、社会的活動もなるべくしない。

これが私の持つ、『神様に祟られる』系に該当する体験かもしれない。

『正しさ』は自己紹介:魂の記憶が投影する他者の言葉

他人に向けての「〇〇すべき」は自分に課したもの

よく、他者に対して「〇〇すべき」とか、「普通は△△だ」などと言う人がいる。

このような人に遭遇すると、深刻に受け取ってしまったり、落ち込んでしまうかもしれない。

でも、その必要はないという話と、その理由について今回は説明しようと思う。

他者は他者の主観世界で生きている

自分が自分の主観世界で生きているのと同じように、他者もまた他者自身の主観世界で生きている

だから本質的には、自身の主観世界に「〇〇すべきだろ」と言う人が映り込んだとしても、自己の世界にとって、その多くは意味がない。
『自己世界を他者世界に押し付ける人が居る』という現象そのものには意味があるけれど、それは魂の記憶(自身が過去、抱え込んでしまった因子)が投影されただけの結果に過ぎない。

魂の記憶が因子となり世界に投影する仕組みについてはこちら⏩

だから、例えばその言葉で不快になったとしたら、それはマイナスの因子だったわけだから、次にまた自身がそれを蓄積しないように気をつけるための反面教師としての価値はあるだろう。

いやいや、導きとしての第三者の口を介した言葉もあるかもしれないし……と思ったら、そのときは、それを判断する良い指針がある。
高次存在というのは押し付けてこない。もっと、さり気ない言葉で自身が気付くのを促してくる。

そのため周囲の人間が高次存在と結びついて、たまたま降りてくるメッセージというのも、多くは押し付けがましさを持たないはずだ。

考える余地がしっかりとあって、否定という形を取らない。

その一方で、その言葉が為になる・自分の役に立つと感じるものだったら、受け取ったら良いものだと思う。
それが自身の主観世界の中に、我がものとして取り込むということになるだからだ。

じゃあ、他者が言う「〇〇すべき」「普通は△△だ」という言葉の中に含まれる、〇〇とか△△という具体的要素というのは、一体何だろう?

他者自身が抱えているもの

その〇〇とか△△というのは、他者が、他者自身の主観世界の中に持っているものにしか過ぎない。

主観世界というのは、自分と他人と同じものを見ていると思うかもしれないけれども、実際には、よく似た要素を持つだけの別々の夢のようなものである。

つまり、異なるものである。

だから、他者の語るものというのは、他者自身が持つもので、他者自身が、そのような世界に取り巻かれているという自己紹介のようなものだ。

だから、それを言われて不快になる経験自体は、魂の記憶があったからだと考えて良いものである一方で、その具体的な内容まで真に受ける必要はないということである。


以下は少し本題から脱線するけれども、だったら、もうひとつ考えうるかもしれない疑問。

世界が異なるなら、自分の言動は他人とは無関係なのでは?

これについて説明しようと思う。

確かに主観世界を軸にして考えるとその通りだけれども、それでも自身の主観世界に確実に影響を与える。
先のリンク先にも合わせて説明しているけれども、自身の主観世界に最も影響を与えるのは、自分自身だ。

つまり、どんな酷いことでも何をやっても良いと考えるのは、自分の世界を苦の因子で占めるための片道切符を手に入れることに匹敵する。

自己の本質は宇宙意識。傷つける対象も宇宙意識。

主観として現れる景色は異なっていても、同じものが傷つけ合うループに入りかねない。

あたかも、自身の右目がえぐられたからといって、えぐった自身の左手を恨んで切断するような状態である。

そんな状態に入り込まないためにも、むしろ逆に、自身を取り巻くもの・主観世界というのは、自分自身の幸福に深く影響を与えると考えて行動したほうが良い対象なのだ。

魂の記憶を変えれば現実が変わる──願望実現の仕組みを徹底解説

願望を叶える方法

以前に、自己啓発には足りない要素がある・だからそれに従っても叶わない場合が多い。と話したことがある。

その時の記事はこちら👇 shankara.hateblo.jp

では、願望を叶えるには実際には、どうすればいいのだろう? というお話を今回はしようと思う。

1.因子を作る

叶えたい願望がある場合、それを叶えるための因子を魂の記憶の中に持っている必要がある。 魂の記憶とは?⏩こちらのページで解説している。

因子は主観世界との関わりによって魂の記憶に刻まれる情報だ。

だから、もしその因子を自身が持っていなくても、主観世界との関わりによって作ることができる。

では、どうすれば作ることができるのだろう?

それは何を叶えたいかによって異なるが、例えば、お金を得たいとする。

お金を得るというのは、どういう状態か。

たとえば、他者から快く貰う姿をイメージしてみよう。
すると、何も理由も無く気まぐれに渡す人というのは、なかなか居ないはずだ。どんな理由で受け取ったか? 例えば、その人の役に立つものを渡して、その見返りに受け取ったとする。

つまり、役立つものを渡してお金を受け取るという状況に自分を置きたいというわけだ。

そのためには、そのような光景を自己意識に見せることで、それを潜在意識の奥に覚えさせる(魂の記憶にする)必要がある

どうすればいいかというと、まずは、人の役に立つものを商品にしている人に対して援助をする。

それが因子を作る。

どうしてお金が欲しいのに、お金が減ることをしなければいけないのか。と思ったかもしれないけれども、因子というのはそういうものだ。

自己意識の中にその情報がなければ、主観世界に投影することもできない。

だから、まずはその情報が必要になるわけである。

渡す金額が設けたい金額に対して1:1である必要はない。
あくまでも魂の記憶が存在しなければ、それが現象化しようもないという話なので、それを何倍にもする術がある。

まず、自己が大きい金額だと感じる金額であるほど、自己意識にとって巨大な富を持ち出したという情報として刻まれる

だから自分の感覚にとっての大きさが大事で、実際の金額に比例するわけではない。

さらに、もう一つ注意点がある。

それは適切な対象に援助しなければならないということだ。

もしも援助する対象が、誰かを騙したり無理やりお金を奪って、貧しくさせるような儲け方をしていたとしたら、騙して奪い取ることの因子が強化されてしまう。

だから、お金を援助する対象は、しっかりと豊かさに繋がる対象を選ばなければならない。

ほかにも、因子を作る方法がある。

2.縁を作る

縁というのは、お金持ちとの縁である。

さっきの事例:お金持ちになるというのが目標なら、そういう人と縁を作り交流を持つことも、因子を作るためには有効である。

私たちの意識は実際には別々ではなくて地続きなので、主観世界で認識下に置き合い集中を向けあえれば、意識を混ぜることができる。

その、混ざった意識伝手に因子をもらうことも可能である。

ただし、こちらの方法は1の方法よりも効果は減るし、意識を混ぜるためにはリラックスして気を許してもらえるような環境や関係性が必要だ。

さらに伝わってくる因子は、稼ぐことにまつわるものだけとは限らない。

とは言え、昔から朱に交われば赤くなるということわざがあるように、人間は肌感覚でこれを感じ取っているはずだ。

3.イメージワーク

夢やイメージを使って、自分が稼いでいる姿を具体的にイメージすることで、因子として学ぶことも実は可能だ。

ただ、これの難しいところは、自分にその因子がない状態では、適切なイメージを持つことは不可能であるというところにある。

だから、このステップをこなすには、すでに1や2で因子をある程度、身につけてある必要がある。

これらを一通り済ませて、しっかりと因子の蓄積ができたら、次にすることは現象化だ。

現象化する方法

内在した因子を現象化するには、今の主観世界との連続性をつなぐ必要がある。

つまり、役に立つものを売ってお金を売るという状況が自然な状態まで環境を整えるということだ。

今とその状況がもし、乖離しているなら、少しずつそのギャップを埋めるように、状況を寄せていくと良い。

ようするに、具体的に計画して行動を移すフェーズはここにあるということだ。


……なんだか普通のことしか話せていない気がする。

気を取り直して、最後にもうひとつお話したいと思う。
それは――

現象化を早める方法

もしかしたら、これが一番スピリチュアルらしさがある話かもしれない。

魂の記憶(内在した因子)が、ストレートに主観世界に投影されやすくなる状態になっている場合、現象化が早まる。

だから、その状態に自身を整えておくと、現象化が早くなる=願望達成の力が強まる。

どうしたら良いかというと、嘘をつかない。言葉を飾らない。誤魔化さない。行動を偽らない。

これを徹底していると、だんだんと因子が主観世界に投影するときの歪みがなくなる。そのぶん早く投影される。

その過程で、苦の因子を多く抱えている場合は、それが先に投影されてしまいはするけれど、それさえ過ぎれば一気に効果がバーっと出るはずだ。

私の在り方と発信の源──高次存在との関係から生まれる言葉たち

私のスタンス

私はいつも、ここのブログに書いているような情報を、どのようなスタンスで発信しているか? というと、以下を心がけている。

  • 高次存在のスタンスに合わせる。

自分にとってのお手本は高次存在なので(師扱いは嫌がるけど)、基本的には彼らを習うようにしている。

たまに迷うことがあると、質問したり相談もする。

そうしながら書いている。


個人的な方針

私は彼らを敬愛しているから、自分の行動もそれに倣いたいといつも思っている。

  • 彼らは何者かを責めることも否定することも一切なくて、
  • いつでも穏やかで、
  • 多少ムッとすることはあっても激しさはなくて、
  • 愛と尊重が当たり前。
  • 相手の魂やその課題を深く知り、主体性を常に尊重する。
  • 善悪や上下の概念がない。

彼らはこれでいて、こういう性質もある。

  • 自分のことを犠牲にしているわけではない。
  • ありのまま・自然体に・自由に振る舞う。

彼らが慈悲深く見えるのは、我慢とか自己犠牲で成り立っているわけではなく、自己も大切にした上で、ただ目的が一致しているからだ。

だから私も、そう在りたいなと思っている。

自分もそんなふうでいたいと思うから、そういられるように心がけているけれども、それはあくまでも心がけだ。
私のほうは人間だから完ぺきではない。

だから、なにかに影響を受けることも、嫌になることも、腹が立つことも、冷たい気持ちになることも、時には過干渉になってしまうこともある。

それでも彼らを倣いたい。というのが、私の個人的な方針だ。


そもそも実際のところは、いくら優れた聖人になろうとも、人間というのは、常に精神性を落とすリスクを抱えている。

なぜなら、私たちの意識は繋がっているからだ。

この世のありとあらゆるもの、くまなく世界にある個々が、世界意識という根源のひとつぶの滴りのようなものだ。

大きな湖の東側の水と南側の水は、別々ではない。同じひとつの湖の一部だ。

そのため、人間世界に生きる人間という肉体を持った人間である限り、完成形というものはない。
つねに人間という主観世界に接続された状態だからである。

「ここまで届いたのだから、もう私は大丈夫」と思うのが落とし穴だったりする。

私もそれと似たようなもので、高次存在に合わせるのを意図してできるし、繋がること自体は簡単にできるまでになっているけれど、それをもってして人間をやめたというわけではない。

求めること、挑むこと、そして超えること──魂の視点から見る成長

自分がいつも願望成就には触れずに仕組みの話しかしないのは、私達というのは、あれが欲しい・これが欲しいなどの利益追求の意識から抜け出して、魂本来の生き方に根ざしたほうが、本当は一番幸せになれるからだ。

魂の課題の仕組みや、それを乗り越えるための方法を書くのは、必ず魂の課題を越えるプロセスを経なければ、魂を自由にすることは不可能と言って過言ではないからだ。

魂の課題を越えるというのは、魂の中にある情報の現象化のループから抜け出すということだ。

それは結果的に、自己に幸福や喜び、生き方(意識)の主導権、自由をもたらす。

それをわかっているから私は、課題をこなすことと、魂本来の視点に沿ったものの見方というのをここで書いている。

それは、それらを咀嚼することで、自己の魂に気付く可能性が高まる・魂本来(内なる神・ハイヤーセルフ)に近付くことができると思っているからだ。

でも、それを求める段階――つまり、魂本来に還ることを望む段階というのは、課題をあれこれと経験し尽くすことで、もういいやと満足できたときだけだ。

だから、経験に真正面から挑んでいる段階というのも、魂にとってはスキップすることができない必要なことなのだろうなと思っている。

求めるというのは、それを体験したいという欲求だ。

だから、それが体験できるように支援すべきなのか、そうすべきではないのか……悩んでいた。

しかし、それを高次存在に相談したところ、支援する内容を書いても大丈夫なようだ。


体験するために挑むことそれ自体も経験のひとつではある。だから、右も左もわからず挑むのも、ゆくゆくの強さにはなるかもしれない。

でも、例えばここに会社があったとして、右も左もわからない新人が、何も教わらずに試行錯誤して学ぶことと、マニュアルを読んで学ぶことで得られる結果はほとんど同じだろう。

もちろん、試行錯誤して学ぶほうが、応用や発想力が鍛えられる。

しかし会社の業務を見ていてわかるように、先にマニュアルで基本を無難にこなせるようになってから、応用や発想力を鍛えてもいいわけだ。

新人教育でもそうだが、そうしたほうが、右も左もわからず放置されるよりもずっと育つのも早い。

逆に、マニュアル無しというのは、困難さや敷居の高さも生み出してしまうだろう。

このような理由から、少しずつ、願望成就向けの内容も出していければいいなと思う。